ワイドの本棚

【ワイドの本棚】『渚にて 人類最後の日』(ネヴィル シュート:東京創元社)

今回は、SFの名作『渚にて 人類最後の日』。
1957年の作品で、ネット社会の現在では内容に古さを感じる箇所はあるものの読ませます。
SFとカテゴリされますが、どちらかと言えばドキュメンタリーのような物語です。
(以下、内容に関わる記載がありますので、未読の方はご注意ください。)

原子力潜水艦〈スコーピオン〉

第三次世界大戦が勃発、放射能に覆われた北半球の諸国は次々と死滅していった。かろうじて生き残った合衆国原潜〈スコーピオン〉は汚染帯を避けオーストラリアに退避してきた。ここはまだ無事だった。だが放射性物質は確実に南下している。そんななか合衆国から断片的なモールス信号が届く。生存者がいるのだろうか? 一縷の望みを胸に〈スコーピオン〉は出航する。
(東京創元社 内容紹介より)

SFサスペンス・アドベンチャーものだと思いますよね。
違います。〈スコーピオン〉は、人類を救う宇宙戦艦でも何でもありませんし、屈強なスーパー隊員も未知の生命体も登場しません。
確かに、モールス信号の出所を調査するため、〈スコーピオン〉は汚染された海を航海し、遂にはその出所を突き止めます。
ですが、このくだりは、この物語の中のほんの一つのエピソードに過ぎません。
というか、モールス信号の出所云々は、もはやどうでもよいとさえ思えます。(どうでもよくはないけど・・・)
調査の途中、〈スコーピオン〉はある隊員の故郷に立ち寄ります。
汚染され、“死”の気配が街全体を包み込む故郷に立ち、隊員はある行動をおこしました。
常識的にはあり得ない行いですが、残り僅かであろう人生と、再び踏むことのない故郷でとった隊員の行動はやりきれなく、自分ならどうしただろうと考えさせられます。

“人類最後の日”

人類滅亡(今日明日ではなく半年先)が疑いのない時、人は残りの時間をどう過ごすのか?
人々は日常を維持し、あたかも明日・明後日・来月・来年と、同じ毎日が続いていくかの如く日々を過ごします。
こどもを育て、庭に花を植え、好きな人の役に立とうと秘書の学校に通い・・・
でも、来年の今日はもうありません。成長したこどもを見届けることや庭に花が咲くこと、想う人と仕事をする日は来ないのです。

人は、これほど尊厳を持って生きていくことができるだろうか。

人類が為す術もなく滅っしていく状況と人々の日々の営みとのコントラストは哀しく、確実に来るその日を静かに突きつけます。

 最後の航海

〈スコーピオン〉は、自らの死に場所を求め最後の航海に出ます。そして、それを渚で見送るひと。。。

『渚にて』は、SFの皮を被った切なく美しいお話でした。
(筒井先生であれば、逆振れするんだろうなぁとか思ったり。)

 

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